++ Happy Everyday.

ジョーカーは誰?

 スタンシアラに着いた時はあんなに穏やかだった空に、今はどこからやって来たのか暗雲が立ち込めている。
 殴りつけるような雨が宿屋の窓ガラスを打ち、流れが速まりやや濁った水路には今もなお水が叩き込まれていた。

「……どうしよう」
 不安げな瞳に空模様を映し、宿屋の一室で外の様子を眺めながらアリーナはぽつりと呟いた。
 部屋には彼女ひとりである。
 同室であるジプシーの姉妹は、午後から情報収集という名目で街へ出かけていた。
 マーニャの瞳が輝き、ミネアの瞳がそんな姉をうんざりとした様子で眺めていたことから、おそらくは帰りに酒場に寄るつもりなのだろうと推測出来た。
 マーニャは無類の酒好きだ。
 ミネアというストッパーが居なければ、酒場で夜を明かすことも稀ではない。
 そういう観点ではミネアは犠牲者とも言えた。


 普段は街へ出る際に彼女らと共に行動することが多いアリーナが今回ついてゆかなかったのは、彼女の教育係でもあるお目付け役に止められたからである。
 昼間にスタンシアラ城にて、王のおふれに挑戦したものの己のギャグ全てが惨敗を喫したトルネコの肩をポンポンと叩き、ブライはその瞳を姫君に向けたのだ。
「私共はこれから少しばかり街へ出て参ります。――姫様はこちらで待っていて下され」
 落ち込むトルネコを慰める為でもあったのだろう。
 移動手段がイカダなどという慣れない場所を、普段なら率先して出歩かなそうなブライだが、口実を作ってトルネコを連れ出す心づもりであったのだ。
 何で私が留守番なの、と口を尖らせるアリーナに、ブライは少し肩を竦めて見せた。
「初めて訪れた土地で皆が宿を空けるわけにも参りますまい。たまには姫様も少し落ち着いて読書でもされたらいかがですかな?」

 実際のところ、宿を空けることにブライはそこまで抵抗を持っているわけではなかった。
 心配性のこの老魔術師は、姫君に酒場に入って欲しくないのだ。
 自分達はこの後、先に街へ出ているライアンと合流し、トルネコの愚痴を聞くついでに酒場に足を踏み入れることになるだろう。
「本を読んでるなんて嫌よ、クリフトじゃあるまいし」
 大人しく読書、などという行為とは程遠い所にいるアリーナはさっそく反論の言葉を口にした。
 部屋でトレーニングでも、と言えばよかったのかもしれないが、アリーナのことだ、宿屋の壁に蹴りで穴を開けかねない。
 姫君の犯行と反抗に慣れているブライは、ゆっくりと己の髭を撫でた。
「ほっほ。そのクリフトめはカイル殿と先程教会に向かいましたぞ」
「何よもう!私を誘ってくれてもいいのに!」
 あわよくば彼に留守番を頼もうかと思っていたアテが外れ、アリーナはますます頬を膨らませた。
「姫様、休養も大切ですぞ」
 コツ、と木の床に杖を突いてブライは説教を始める。
「暴れてばかりでは――もとい身体を鍛えてばかりで己の身を振り返らないのでは、一流の武闘家とは言えません。そもそも――」
 長くなりそうなお小言が始まってしまった。
 助け舟を出してくれそうな――というよりも自分の代わりにこの教育係の説教を聞いてくれそうなクリフトも出かけているのであっては、アリーナにとっては分が悪い。
 わかったわかった、分かりました、と老魔法使いの言葉を遮り、アリーナはしぶしぶ彼らを見送った。


 そして現在。
 昼間の会話を思い出していたアリーナは、窓の外を眺めていた瞳を恨みがましい色に染めた。
「……どうしよう」
 先程と同じ台詞を、もう一度呟く。
 宿の主人に訊いてみたところ、年間を通して降水量の少ないスタンシアラだが、この季節は時々、北の海から吹く風の影響もあって突然スコールが起こることがあるらしい。
 暴風がガタガタと窓を揺らし、空が暗すぎて気づくのが遅れたが、いつの間にか夕暮れをとっくに過ぎた時間帯だ。
 普段ならそろそろ空腹を感じ始める筈のアリーナなのだが、しかし今の彼女はそれどころではなかった。

 遠く東の空に一瞬、閃光が走る。
「っ!!」
 その稲光を認め、アリーナは反射的に身構えた。
 遅れて地鳴りの様に響く、まだ遠い轟音。
 嵐と共に、雷がやって来たのだ。
「ぅう……」
 明るい茶色の瞳で空を睨みつつ、アリーナの唇は歪んでそんな声を漏らした。

 そう――。
 姫君は雷が苦手であった。
 猛者どもの集う武術大会を制し、毎日の様に魔物共をちぎっては投げちぎっては投げするアリーナの弱点である。
 いつから苦手なのかは憶えていない。
 身一つで戦うアリーナの動物的本能が、アレは危険だと叫んでいるのかもしれなかった。
「なんで誰も居ないのよ…」
 帰って来ない同室の姉妹を少しばかり恨み、アリーナは窓の桟に手をかけてゆるゆると膝を折った。
 マーニャとミネアが居てくれれば、色々なおしゃべりをしながら気を紛らわし、雷が過ぎるのを待てるのに――。

 ガラス窓の外が再び明るく光り、部屋の中にアリーナの影を浮き上がらせる。
 雷雲が風に乗って、ゆっくりと、そしてどんどんスタンシアラ上空に近づいて来るのは明らかであった。

「…よし」
 不気味に響く轟音が一時的にもおさまったところで、決意に瞳を染めたアリーナは顔を上げた。
「………大丈夫よ。大丈夫。下に行けばきっと…」
 階下には談話室がある。この天気では他の客も部屋に籠り、そこにだって誰も居ないかもしれないが、それでもこの暗い部屋で独りきりという状況よりは、何故かマシのようにも思えた。
 ぎゅっと胸元で拳を握り、そっと窓を離れる。
 ガラスの外側の空がぴかりと光る度にビクリと小さく身体を震わせながら、アリーナはやっとドアノブに手をかけた。



 廊下のランプは風も無いのにゆらゆらと火を揺らめかせ、いつもであれば何ということも無いのに今日は何故か不気味さを感じた。
 ぎい、ぎいと階段を軋ませ、アリーナは壁を辿るようにしながら一歩一歩そこを下りてゆく。
 吹き荒ぶ風は宿の外で鳴りやむ様子も無く、その音は雷でもないのに彼女の足取りを重くさせた。
「やっぱり誰も…いない……」
 階段を下りきったところで、廊下の先の談話室が見えるようになる。
 簡易なソファには誰も腰かけておらず、暖炉の火だけが無人の部屋を煌々と照らしていた。
 談話室と反対方向、宿の入口のカウンターにも誰も居ない。
 この天気では新規の客も来ないと読んだのか、机に呼び鈴を置いただけで宿の主人は奥の部屋へ引っ込んでしまっている様だった。

 今日は素泊まりで宿を取っていた。
 嗅ぐだけで癒されるような夕げの匂いも全く感じられず、外の豪雨のせいもあって一階全体がどこか冷え切っている。
 一瞬、談話室の方向が明るく光った。
 窓の外の稲光だろう。
 すっかりしょげたアリーナはその場に蹲り、耳を塞いで数を数え始めた。
 轟音が聞こえてくるまでの秒数は、ここに来るまでの間に大体分かっていた――ゆっくりと数えて六つ目、だ。
「いーち、にーい、さーん…………」
 来て欲しくは無いが来るべき瞬間を必死で待ち構えながら、アリーナは目を閉じる。

 と、その時。

 アリーナの唇が五を唱えようと開きかけた瞬間に、バン、という大きな音がフロアに響き渡った。
 びく、と瞳を開いたアリーナは反射的にその音の方向、宿の入口に顔を向ける。
 同時に轟く雷の音――今度は特大だ。
「ひぃゃああああああっ!」
 再び目を瞑り、甲高い叫びを上げながらアリーナは身を強張らせた。
「姫様!?」
 入口の方向から、声がする。
 耳を塞いでいた為にハッキリとは聞こえなかったのだが、それでもホッとする声に呼ばれたような気がして、アリーナは怖々と瞳を開けた。

 今はしっかりと閉められた扉の前に立つ、二つの影。
 髪から服からぼたぼたと雫を垂らし、全身濡れ鼠になってそこに居たのはクリフトとカイルだった。
「…クリフト」
 ぽつりと、アリーナの唇が動いてその名を呼ぶ。
 そして返事を待つより早く、アリーナは半ば無意識で入口に向かって駆け出し――体当たりをする如くに従者に身体を投げ出した。
「ひっ、ひめさ」
「あ痛てっ」
 思わず受け止めたクリフトだが、突然の衝撃でバランスを崩し、よろりと後ろへよろめく。
 その背中がすぐ斜め背後に立っていたカイルを押し、カイルは宿の扉にしたたか後頭部を打った。
「す、すみませんカイルさん。――あの、姫様」
 さっさとカイルに詫びを入れつつ、クリフトは何とか体勢を直してアリーナを呼ぶ。
 アリーナは大雨でぐっしょり濡れているクリフトの服にしがみついたまま、胸元にうずめた顔を上げない。
「…姫様?あの、私濡れておりますので…これでは姫様の御服まで――」
 抱きしめられず、アリーナにやんわりとそう告げ自分の身から離そうとすると、クリフトは姫君の肩がピクリと反応したのを感じた。
「……そい」
 俯いたアリーナの、か細い声が聞こえてくる。
「は?」
「遅いっ!どこで何をしてたのよっ!」
 二人が帰って来て安堵したのと叫びを聞かれて気恥ずかしいのとで、顔を上げたアリーナは少し頬を赤くして声を荒げた。
 防具を取り、ぷるぷると頭を振って水を払ったカイルがきょとんとアリーナを見る。
「伝言聞かなかった?俺達は教会に――」
「知ってるわ!」
「えぇー…」
 問いに答えたのにも関わらず噛みつかれ、カイルは言葉を続けられずに肩を竦めた。
「…すみませんでした、姫様」
 隣に並んだカイルに代わってアリーナに謝罪し、クリフトは姫君の、本気で怒っているというわけではなさそうな瞳を見つめる。
 アリーナが雷に弱いということを、クリフトは勿論承知していた。
 それだけに、ここで独りきりで待たせてしまったことを申し訳なく思う。
 しかし神官帽の鍔の先から水滴がぽたぽたと落ちるのに気付き、頭は下げられずにそれをぐいっと持ち上げた。
「――この雨で水路が酷く荒れておりまして」
 教会での用事はこの空模様になる前に済ませたのだが、その後食糧の買い出し中、突然湿った風が吹き空を暗雲が覆ったのだ。
 串に刺した焼き魚を売っている出店の前でテコでも動かないカイルを急かし、もう買えばいいじゃないですかと促す頃には水路を叩く雨脚はかなり強烈なものとなっていた。

「これじゃあ危険でイカダを出せないって町の人が言うのを、無理やり出して帰って来たんだぜ」
 肩にかけていた、食料の入った布袋をドサリと床に下ろし、カイルは言った。
 その袋も雨のせいですっかり濡れてしまい、床にじわじわと染みを広げていく。
「俺はどこかで雨宿りして行こうって言ったんだけど。…こいつが、嫌だ絶対帰るって言い張るもんだから」
 紐のゆるんだ袋の口からごろりと赤いりんごが転がるのを片手で受け止め、カイルは言葉の最後でクリフトを見た。
「……ええ、まあ」
 危険を冒してでも宿まで戻りたかったのは、とにかく姫君が無事かどうかを確認したかったからなのだが――それを大っぴらに言うわけにもいかない。
 顎のベルトを外して帽子を取り、半分ほど濡れてしまった髪の毛をかき上げながらクリフトは苦笑した。
「…ところで姫様、ブライ様はお戻りになられましたか?」
「帰って来てないわ」
 口を尖らせ、アリーナは首を横に振る。
「イカダが出せないんじゃ、じい達だけじゃなくマーニャとミネアも戻って来られないわね…。困ったなぁ」
 出入口に取り付けられた小さな窓から空が光るのが見え、僅かにびくっとしながらアリーナは呟いた。
 困ったとは言ったものの、おそらく姉妹もブライ達もみな酒場にいるであろうことを知っているので、安否についての不安では無い。
 酒場が浸水していないことを祈りはするが――町の造り上、おそらくはそういった対処もしてあるだろう。
 本当に不安なのは今夜のことだ。

「…姫様、あの…」
 考え事をする様に目を伏せてしまったアリーナを、そっとクリフトが呼んだ。
「なあに?」
 顔を上げると同時に鳴る、雷。
 先程一階に下りて来た時よりも近づいて来ているようだ。
 アリーナが眉を顰め、未だにクリフトの服を握っている手に力が込められる。
「服を乾かさなければなりませんので…私とカイルさんはこれから部屋に戻りますが…」
「うん、そう」
 頷きはしたが、アリーナは掴んだクリフトの服を放そうとしなかった。
「……あの、姫様」
「うん」
「服を……」
「うん」
 頷く度に力が強くなっていく、アリーナの指先。
 それを無理に外させることなど、立場的にというよりは心情的に、クリフトには出来そうもない。
 濡れた足元の感触が心地悪いのか、二人の傍でカイルがブーツのつま先をぐりぐりと床に擦り付けていた。

 窓から射す、閃光。
 青白い光が宿屋を包み、続いて地響きと共に轟音が鳴る。
 一瞬閉じた目を開いてキッと顔を上げ、次の瞬間アリーナはとんでもないことを言い出した。

「クリフト」
「はい」
「今日は私、クリフトと一緒に寝る!」
「は、……ぃえ!?」
 硬直するクリフトの素っ頓狂な声が、一階のフロアに響いた。




 外の豪雨は収まる様子もみせず、相変わらず窓ガラスを叩いている。
 嵐の音以外は静かである筈の宿の一階で、若き神官は只々狼狽していた。

「な、なななになになにを仰ってるのですか姫様!」
 ぶんぶんと振った頭から、雨粒の雫がぱらぱらと舞う。
 そんなことはお構いなく、アリーナはクリフトに詰め寄った。
「だってすごい雷なんだもん!マーニャとミネアは帰って来ないし!」
「で、ですが」
「いいでしょう!?」
「駄目ですっ!」
 普段であれば大抵のアリーナの言葉に首を縦に振る従者クリフトであるが、こればかりはそうもいかなかった。
 何せ相手は、野宿の時は仕方ないにしても寝顔を拝むのさえ憚られる、一国の姫君である。
 否その前に――女の子だ。
 例え天が赦そうが、クリフトが自分自身に許可を下せるはずが無い。
「姫様――いいですか姫様」
 自分自身を落ち着かせる為にもゆっくりとアリーナに話しかけ、クリフトは自分の服を掴む姫君の手をそっと取った。
「雷は間もなくスタンシアラ上空を通り過ぎるでしょう――、夜中にはすっかり静かになりますよ。ですから」
「い・や!」
 クリフトが言葉を終える前に、今度はアリーナがぶんぶんと頭を振る。
「部屋に行ったって独りよ。心細いことには変わりないもん!」
「それは…分かりますが――…いや駄目です」
「お城にいる時は、よく部屋で眠るまで一緒に居てくれたじゃない!」
 雷に脅えていた少女はどこへやら、今のアリーナはすっかり覇気を取り戻してマーニャが居たら目を輝かせて面白がりそうなことを暴露する。
 しかし生憎ここにはカイルしかいない。
 そのカイルはぼんやりと窓の外を眺め、「うわ、また光った」などと呑気に呟いていた。
「幼い頃の話ですよ……」
 轟く雷鳴にかき消されそうになる程度の声で、ぼそぼそとクリフトは意見を述べた。
 いつの間にか今度はクリフトの手首を掴んでいるアリーナは、半ば意地になって絶対に放すまいとその手に力を入れる。

「………………わかりました」

 雷が二回ほど鳴って、アリーナがその度にぎゅっと手首を握ったところで、漸くクリフトはそう言った。
「ほんと?」
 アリーナの瞳がパッと輝き、嬉しそうにクリフトを見上げる。
 クリフトはその眼差しに少しくらくらしながらも、はい、と答えて僅かに頷いた。
「ただし部屋は駄目です。――談話室で、一緒におりますから――カイルさんも」
「え?」
 訊き返したのはアリーナではない。
 我関せずで窓の外を覗いていたカイルが、眉を顰めながら振り返る。
「なんで俺も」
「談話室なら暖炉もありますし、服も乾かせます」
「暖炉なら部屋にもあ」
「三人で雷が過ぎるのを待ちましょう」
 カイルの言葉に被せる様に強引に話を進め、それでいいですか?とクリフトはアリーナに尋ねる。
 少しの間クリフトとカイルを見比べ、アリーナはこくりと頷いた。

*****

 雷の峠は過ぎたようで、それでもまだ外の暗雲からは強い雨が降り注いでいた。

 暖炉の火がゆらゆらと、傍に置いてある二足のブーツと、ソファのある部屋をオレンジ色に照らす。
 部屋にある丸いテーブルの上には、パンくずしか残っていない空っぽの皿と冷めた三客のティーカップ。
 コート掛けにぶら下げた外套が時を刻むよりもゆっくりと、一粒ずつ床に雫を垂らしていた。
「うーん……」
 吐息の様に漏れる、少女の声。
 ソファの前の二人の男女が、談話室に長い影を落とす。
「わかったわ、クリフト」
「…いいんですか?」
「え、う、うん…やっぱりちょっと待って」
「…待てません」
「お願いだから。ちょっと考えさせて」
「触ったら戻れませんよ?」
「うう」
 ラグにくっきりと浮かび上がるその二つの影は、時折触れ合いそうになりながら、寄り添う様にじゃれあっていた。

「………お前らさ」
 むくり、とソファからもうひとつの人影が起き上がった。
「さっきから何度目?飽きないわけ、その……オールドメイド(ババ抜き)」
 呆れた声を出したのは勿論、部屋に戻りたかったのに何故かここに道連れにされたカイルだ。
 二、三回ほど付き合ったものの、この翠髪の青年はとうの昔に単調なゲームから離脱し、ソファに身を投げ出していた。
 アリーナはカイルのほうへは振り返らず、「そんなこと言ったって」と呟きながら、目の前に差し出された二枚のカードを睨みつける。
「私、ポーカーとか出来ないんだもん……、決めた、コレよっ」
 きらりと目を光らせ、アリーナはクリフトが指先で持つ二枚の中からひとつを選び、暖炉の灯りに掲げた。
 めくってみると、そこにはこちらを嘲る様なポーズをした道化師の絵。
「またジョーカー来たぁあ………」
 勝負はまだ終わっていないものの、表情豊かなアリーナにとってこの段階でジョーカーが手元にやって来たということはつまり負けを意味する。
 アリーナは自分が持っていたスペードの七のカードとともにそのジョーカーをラグの上に撒き、口を尖らせてクリフトを睨んだ。
「少しくらい顔色変えてくれてもいいのにさ」
 こういった遊びをする時のクリフトは至って冷静そのものだ――幼い頃からアリーナは、トランプやチェス等で彼に勝てたことは片手で数えられるくらいしかなかった。
 以前なら「次は格闘ごっこしよう!」などと持ち出してクリフトを城の庭に引きずっていき、憂さ晴らしをしたものだが。
「顔色を変えたら負けてしまいます――今の姫様の様に」
 クリフトは自分とアリーナの間に散らばったカードを集め、飄々とそれを切り始めた。
「言ってくれるわね…」
 そう呟きながら身を乗り出したアリーナは、既に次のゲームをするつもりのようだ。
 そんな二人の様子を眺めながら、カイルはひとつ溜息をついた。

「自分の胸の内を隠すのには昔から慣れてるだろうしな、クリフトは」
 ソファに再び寝転がった人物からの言葉に、クリフトのトランプを切る手が一瞬だけ止まる。
「………何のことですか」
 素知らぬ顔でカードを整え、またそれをよく混ぜながら、クリフトは言った。
「……言っていいのか?」
「いえ、聞きたくありません」
 男二人の意味深な会話に、アリーナは不思議そうに首を傾けたものの、深く突っ込みはしない。
 クリフトはそんな姫君に密かに安堵しつつ、無言でカードを配り始めた。

 クリフトが胸に秘めているアリーナへの想いを、勿論カイルは知っている。
 それは共に旅を始めてからすぐに気付いたことだった。
 アリーナはどうか?――女心に疎い自分には分からない。
 しかし旅を続けるに従って、特にバルザック戦の後あたりから、二人の雰囲気は少しずつ変わって来た様にも思う――明確に何がどう変わったかと訊かれれば、上手く説明出来ないのだが。
 しかしこの生真面目な神官の胸の内で、姫君への想いが少しずつ進化しているのは確かだった。
 だからこそ彼は、この自分を今ここに引き込んだのだろう。
 言ってみれば自信が無いのだ。
 愛しい相手と共に二人きりで夜を過ごし、自分を抑えきれる自信が――。
「………不器用なヤツ」
 ラグの上に綺麗にトランプが伏せて配られていくのを見ながら、カイルはぼそりと呟いた。

*****

 かたん、と薪が崩れる物音に、ハッと瞳を開く。
 カーテンを引いた窓の外は静かだ。
 嵐は過ぎていったらしい。
「眠ってたのか…」
 いつの間にか誘われていた夢の中から引き戻され、カイルはごしごしと目を擦りながらソファから身体を起こした。
 かけられていた毛布が音も無く落ち、一体今は何時なのだろうと柱時計を見ると、針は深夜を示していた。
 立ち上がり、ぐっと伸びをして部屋を見渡す。
「……!」
 ソファの端に、座る部分を背もたれ代わりにして寄り添う二つの影があった。

 ラグにはトランプが散らばり、床にだらんと放られたクリフトの指先にはジョーカーのカードが乗っている。
 アリーナはそんなクリフトの首元に顔を寄せて身体を預け、二人は座ったままですやすやと寝息を立てていた。
 ――どうやらゲームをしながら、二人ともいつの間にか眠ってしまったらしい。察するにクリフトのほうが少し先に堕ちたのだろう――でないとこの様な状況になる筈が無かった。
「…やれやれ」
 幸せな状況に陥っているというのに、そういう時に限ってすっかり意識を手放しているのが神官たる所以だ。
 カイルは苦笑しつつそっと屈んで、クリフトの指からジョーカーを抜いた。
 いたずらに笑みを浮かべる、道化師のカード。
 目を覚ましそうにもない、若い二人の男女。
「…………」
 午前中はこの国の王を笑わせるなどという無理難題に頭を悩ませ、午後は買い食いをしたかったところを急かされ、夜の談話室では二人のカードゲームにつき合わされ――
 今日の自分はまるで道化のようだ。大したこともしていないのに、何故か疲れた。
 …少しくらいなら悪戯をしても罰は当たるまい。

 カイルは音を立てないようにクリフトの手首を取り、そっとアリーナの腰に回させる。
 そうして二人にまとめて毛布をかけ、少し離れて眺めてみると、その様子は冷えた姫君の身体を抱き寄せて温めてやる、恋人そのものの様だった。

「じゃ、そういうことで。俺は部屋に戻るから」
 友を起こさぬように小声で囁くカイルの口元が、にやりと道化師の笑みを模して持ち上がった。

*****

 嵐が過ぎた早朝は雲ひとつ無く、空までもが洗われたようだ。
 夜明けを待って酒場からイカダを出し、名実共に宿に朝帰りをした面々は、湿った服を乾かしたいこともあり、足早にカウンターを通り過ぎた。
 ――そして。

「………な、なな、ななな!?」
 談話室に人影を認め、不思議に思いそこへ足を踏み入れた老魔術師は、目に入って来た現状を信じられないといった様子で、手に持つ杖を震わせた。
「どうしたんですかブライさん。……あら」
「へ、なになに何かあったの…あらららっ!」
 ブライに続いて部屋に入ったミネアとマーニャが、それを見てそれぞれに声を上げる。

 火の消えた暖炉の前、敷かれたラグの上に横たわる二人の男女。
 青年の腕を枕にした少女はすやすやと彼の胸に顔を寄せ、青年の方はと言うと彼女の腰を自分に引き寄せるようにしっかりと抱いて眠っていた。
 脚にかけられた毛布が温かそうだ。
 否、それはともかく。

「何をやっておる、このたわけがぁああああっ!!」
 宿全体を揺るがす雷の如き一喝が、男女に――というよりも主に青年のほうに飛んだ。
 老魔法使いが握りしめた杖の先がビキビキッと音を立てて凍るのを見て、慌ててミネアが宥めに入る。
「ま、まあまあブライさん。とりあえずは落ち着いて話を聞きましょうよ」
「ええい、止めて下さいますな!……クリフト!おい貴様、起きんか!離れんかこの!」
 ブライがぶんぶんと振りかざす杖から、氷の刃が飛ぶ。
 響く怒声に、どうかしたのかとやって来たライアンとトルネコの間を掠め、その氷は天井に突き刺さった。

 混乱と動揺が魔力に変換され、このままでは部屋自体を凍らせかねない――そこにいる誰もがそう思った時、暖炉の前で眠っていた青年が、喧騒で目を覚ましたのかゆっくりと身体を起こした。
「ふぁ……、ブライ様…?…何事です…か」
 起き上がると同時に、腕に乗っていた姫君の頭がごつんとラグに落ちる。
「あれ…姫さま…」
 ソファにあった柔らかいクッションを寝ぼけながらもアリーナの頭の下に差し込み、つい今しがたまで自分も一緒に包まっていた毛布を掛けなおしてやり――、
 そこで、クリフトの顔から血の気が引いた。

「!?」
 ソファを見る。
 居たはずのカイルの姿が無い。
「………っ!!」
 談話室の入口を見る。
 怒りの炎――というよりも怒りの冷気を身に纏ったブライが、ライアンやトルネコに押さえられつつそこに立っていた。
「ブ、ブライ様…、こ、これはその違うんですあの」
 半ば絶望的な気持ちになりながらも、クリフトは慌てて片膝をつく。
「ほう……?」
 表層だけは落ち着いて――だからこそ余計に怖いのだが――ブライは片眉を上げた。
 恐ろしすぎて目を合わせられない。
 視線を泳がせながら、クリフトはしどろもどろに説明を始めた。
「昨晩の雷で、姫様が怖がっ……いえ、少し落ち着かない…ご様子でして」
 どう表現しようかと頭を悩ませているクリフトを前に、ブライの横でマーニャがニヤッと笑みを見せた。
「それで抱きしめて寝てあげたのね」
 身もフタも無い言葉である。
 当たり前だがその顔は、面白いものを見つけた子供の様に輝いていた。
「くっ…違、違います…」
 違うとはいえ、見られた状況はマーニャが説明したものと全く相違ない。
 絶体絶命の境地に立たされたクリフトは言葉を探して逡巡する。
 その背後の毛布がごそごそと動き、続いてアリーナが目を覚ました。
「んん……どうしたの、クリフト…」
 目を擦りながらむくりと起き上がり、振り返ったクリフトを見上げる。
 そうしてアリーナは、寝ぼけた瞳をにっこりと緩ませた。
「続き、する?」
「!!!」
 凍り付く、一同。
 状況を全く把握していない姫君は、その空気に気付けない。
「ひ、ひめさ」
「昨夜は最後のほうに優しくしてくれたものね…もう手加減は要らないわよ」
「姫様!」
 トランプでやっていたゲームの話をしているのだろうが、今この現状においてその言葉は全く異なる意味となってブライの耳に届いた。

「この………」
 ひゅう、と風が吹かない部屋の中であるにも関わらず冷気が届き、クリフトは背後のブライの呟きに、もう全てを覚悟して振り返る。
 大きな氷の塊で包まれた杖を振りかざす老魔法使いの身体が、ゆらりと動くのが見えた。
「この大馬鹿者がぁあああっ!」
 怒声と共に振り下ろされた杖の先が神官の頭に痛恨の一撃を与え、魔法の氷が粉々に砕け散った。




 談話室からは今もなお、ブライの小言が響いている。
 もう当人達に任せようと踵を返したマーニャ達は、階段の下で壁に寄りかかって笑っている翠髪の青年を見つけた。
「お帰り、昨夜は大変だったな」
 一枚のトランプを指で弄びながら、カイルが言う。
 嵐で帰って来られなかったことを示しているのだろう。
 ミネアは曖昧に笑って応えたが、留まっていた場所が酒場であった為、マーニャは特に苦痛とは感じていなかった。ライアンとトルネコも同様である。
「私達は別に、飲んでただけよ。それより――」
 ちらちらと談話室の方向を横目で眺めながら、マーニャはカイルに顔を寄せた。
 その後ろをライアンが兜を外しながら通り過ぎ、あくびをしながらトルネコも続く。
「こっちはどうだったの。あんた、あの二人と一緒だったんでしょ?」
「まあね」
 寄りかかっていた姿勢を正しながら、カイルは苦笑して頷いた。
 確かに一緒には居た。――三人揃って眠り込んでしまい、自分がそれに気づくまでは。

 寝ている二人に少しばかり手は加えたが――それがバレては自分までもがブライの説教を喰らうことになるだろう。
 正直に話し、自ら火の粉を浴びることはない。
 おそらく勘の良い神官にはじきに気付かれ、恨みがましく睨まれるだろうが――。

 たまには、ハメを外してみればいいのだ。
 ガンガン説教をされているであろう神官の様子を思い浮かべ、ふと口元を緩ませる。
 姫君までもが、積極的といえばまあ積極的だった昨晩の様なチャンスは、そうそう無い――。

「…ホント、不器用なヤツ」
 ふと、昨夜の言葉を再び呟く。
 何かあったの?というマーニャの問いへ「別に」と嘯き、カイルは指先のジョーカーをひらひらと振ってみせた。



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