++ Happy Everyday.

女神と影.1

 東の空が白み、大地が太陽を待ち緩やかに息づく時刻。まどろみの中で人は夢を見る。

*****

 夢とも現とも判らぬ霧の中に、青年は居た。
 ――ここは、以前にも来たことがある…。
 朧げな記憶の糸を手繰り寄せ、青年は辺りを見回す。
 そうだ。これは夢。
 自分は夢の中を漂っている…。

 青年は一歩、足を踏み出す。
 それは、何の前触れもなかった。
 たちどころに霧が濃くなり、辺りに身を切られるような冷気が立ち込めた。
 顔を上ると霧の奥から、重く暗い声が響いた。
『…間もなく、時は来る』
「また“あなた”ですか」
 青年は呟き、姿の見えぬ声の主に応じる。
 これは夢。しかし、それを理解しつつも青年はどこかで現実を感じていた。
 自分には、夢の記憶がある。この場所に来るのも、もう何度目だろうか。
「…時が来る、とは」
 落ち着いた様子で、青年は問うた。
『――“時”…。そなたの有する“禁呪”の対価を払う“時”だ』
 声は低く告げる。禁呪、という言葉に、青年はわずかに眉をひそめた。
「以前にも申し上げました…私は、それを使役したことはない」
 この空間の主との問答は、もう幾度となく繰り返されていた。しかし、最近は声が近い。距離的なものは測れないが、夢であるのに全身を貫く悪寒が、感覚的にそれを伝えていた。
『使役していない?だが会得した』
 青年の答えを最後まで待たず、霧の声はそう言ってのける。有無を言わせぬ圧迫感があった。
『あの術を得る際に覚悟はしていたはず。闇のモノと契約するにはそれ相応の対価が必要だ』
「………」
『そしてそなたは覚悟と共に契約をした。否とは言わせぬ』
「対価とは」
『そなたが心より大切にする存在を』
「それは出来ない」
 霧の声が言葉を紡ぎ終える前に、青年はぴしゃりと言い切った。それに、と続ける。
「私は…使わない。…これからも」
 霧の中に響く青年の声が、少し沈んだ。それが迷いであることに、彼自身、気づいていた。
 しばしの静寂。
 やがて踵を返そうとする青年を、霧の声が追いかけた。
『時は来る…間もなく、だ。どんなに抗おうと、そなたはあの禁呪を使う。“女神”との“約束”の為に。…それまでは』
「――……」
 ――青年は少し俯き、続きを拒む様に頭を振った。

*****

「なんじゃ…もう起きておったのか」
 夜明けと同時に宿のベッドから起き上がり、顔でも洗おうと洗面所へ現れたブライは、そこにいた先客に気付いて呟くように話しかけた。
 穏やかな老魔法使いの声に、洗面台の鏡と向かい合っていた人影がこちらを振り向く。すでに神官の旅装束で身を整えた青年。
 ブライと同室のクリフトだった。
「おはようございます…ブライ様」
 微笑と同時に軽く下げた頭で、夜と明け方の合間のような群青色の髪がぱさりと揺れた。
「使ってもいいかの。儂も顔を洗おうと思ってな」
 クリフトの額で少し濡れて貼りついた髪を見て、既に洗顔は終わったのだと判断したのだろう、ブライが己の白髭をなでる。
 クリフトはすぐに頷いた。
「もちろんです。どうぞ」
 言いながら横に避け、傍にある水桶を確認する。
「…井戸からもう少し汲んで来ましょうか」
「いいや構わんよ。湯あみをするわけでも無し」
 青年の気づかいにブライは笑った。しかし、鏡と向き合うと同時に「はて」と首を傾げる。
「しかし…そなた、昨晩寝る前にも水を汲んでいただろうに」
 樽の様に大きな水桶に、水は残り半分しか入っていなかった。それでも洗顔には充分ではあるが、桶いっぱいの状態からクリフト一人がここまで使ったとなると計算が合わない。
 ブライの指摘に、洗面所を出ようとしていたクリフトは背中を向けたままぴたりと動きを止めた。
「すみません。…先ほど、寝ぼけて零してしまいまして」
「そうか。まあ三文の得とは言えあまり無理をせぬことじゃ。早起きは年寄りの特権じゃて」
 言いながらブライは小さな桶に水を汲み替え、手にすくう。
 礼を伝えて去ってゆく背後の声は、“寝ぼけていた”というわりにはいつもの通りに聞こえた。


 宿の出入り口から出てすぐの木陰で、クリフトは小さく溜息をつく。
 ――気づかれただろうか?
 先刻の会話を思い返す。
 ブライは鋭い。自分のような若輩者のごまかしなど、看破されてもおかしくはなかった。
「っ!…う」
 途端に湧き上がる眩暈。クリフトは口元を抑えた。


 ここ数週間、明け方にかけて夢を見る。
 ブランカを出て、アネイル北の砂漠に入ったころからだ。
 繰り返し、繰り返し、それは少しずつクリフトの精気を削っていった。
 そして起き抜けに襲う、頭痛。吐き気。
 まだ夜も明けきらぬうちに床を抜け出し、誰にも悟られぬように洗面所で吐いて口を漱ぐ…
 体力までもがじわじわと追いつめられていた。
 額に汗が浮き出、髪が心地悪く貼りついた。

 脳裏に、今朝がたの夢の声が響く。
 “どんなに抗おうと、其方はあの禁呪を使う。――…それまでは”
 ――それまでは、この身の命を削っていくというわけか…。
 クリフトの口元が歪み、笑みを形作った。
 微かな自嘲。

(――大丈夫だ。落ち着け、落ち着け……)
 朝の新鮮な空気から精気を養うため、大きく深呼吸をする。
 気づかれるわけにはいかない。
 ――守り通さなければ。

 それは、幼き日に、彼の“女神”と交わした“約束”でもあった。

*****

「それでね、ここからもっと南下していけばもうすぐコナンベリーでしょう。そこから船に乗ろうと思うのよ――聞いてる?」
 宿屋の食堂。
 出された朝食を食べ終え食後の紅茶を飲みながら、山吹色の旅装束に身を包んだ少女は、まだ幼さの残るあどけない顔を従者に向けた。
「…クリフト?」
 首を傾げた彼女の頭で、陽だまりの様な明るい色の髪がさらりと流れる。
 アリーナの声に、呼ばれたクリフトはハッと顔を上げた。
「…はい、聞いておりますよ。コナンベリーでしたら大きなドッグと船もありますし…」
 いつもの穏やかな笑顔と共に答える。
 隣から横目で若い神官の様子を窺っていた老魔法使いも、彼に同意して頷きながら己のティーカップに視線を戻した。
「あすこは近くの岬に大きな灯台も設置されておりますのでな。より安全に海を渡れるでしょう」
「じゃあ、決まりね」
 本気でやると決心したら同意を得られなくても行動するであろう王女だが、行き先が満場一致で決まり、満足したように机の上の簡易な地図を丸める。
 そのタイミングでクリフトは席から立ち上がり、空になったアリーナのカップに新しい紅茶を注いだ。
「ありがと」
 アリーナは言って、隣に立ったクリフトをふと見上げる。
「…なんか、元気無いのね」
「は」
 主の言葉に、クリフトは内心だけでどきりと冷や汗をかいた。
「…そのようなことは」
「だって。朝ごはんのサンドイッチも一切れしか食べてなかったじゃない。ちゃんと食べなきゃダメよ。…って言っても残りは私が食べちゃったけど」
 クリフトは苦笑しつつ「大丈夫ですよ」と念を押してアリーナに背を向け、流し台にティーポットを置く。
 そして自分の席に戻り、傍らに置いておいた神官帽を目深にかぶった。
「昨夜の夕飯が少し重かったので。…食べ慣れないものですと、よく次の朝にこうなるんです」
「そうだった…?」
“夕食はそんなに重いものだったかしら”と“果たしてクリフトはそんな体質だっただろうか”という二つの意味でアリーナは再び首を傾げたが、深くは考えなかった。
 議論を続けるかわりに、彼女もテーブルの端に置いておいた帽子を頭に乗せる。
「支度が済んだら出発ね。宿屋の前に集合っ!」
 王女の元気な笑顔に、ブライとクリフトは二つ返事で頷いた。

*****

「出て来る魔物、少し変わって来たわねぇ…」
 最後に残ったかまいたちに会心の一撃を決め、アリーナは服の裾を軽く払って溜息をついた。
「着く前に夜になりそうね」
 早朝に宿を出て今はすでに夕方、一行はコナンベリーの領域に入っていた。
「なにやら数も増えて来ましたな。姫様、怪我はされておりませんかな?」
 サンドマスターの群れにヒャダルコを見舞っていたブライは、戦闘が終わってすぐにアリーナの無事を確かめる。
 いつもならそれは自分と共に姫に付き従う神官の役割なのだが、そのクリフトはブライの背後で漸く剣を鞘に収めたところだった。
「大丈夫よ。これくらい」
 腕に作った擦り傷をブライが見つけたのに気付き、アリーナは傷口を軽く舐める。
「これ、いけませんぞ。小さな傷も膿んでは事ですからな。…クリフト」
「はい」
 足音でクリフトが近づいて来たことを知っていたブライは、振り返らずにその名を呼ぶだけで指示を出す。
 クリフトはすぐに、ホイミを唱える為アリーナの腕に手をかざした。
「大丈夫なのに。大げさなのよ、じいやは」
 アリーナは決まりが悪そうに口を尖らせてから、クリフトに笑ってみせる。
 しかしその視線は、すぐに彼の上腕に向けられた。
「あなたも怪我してるじゃない」
「ああ、これですか。大丈夫ですよ、次にホイミします」
「私のより深い傷よ。そっちを先になさい」
「大丈夫です。すぐ済みますから、動かないで下さい」
 クリフトの手から柔らかな光が発動され、アリーナの傷をみるみる塞いでいく。
 それがすっかり治ったところで、クリフトは笑って「はい、おしまいです」とアリーナの腕を解放した。
 己よりいつもこちらを優先するこの幼馴染の従者に、アリーナは少し困りつつも礼を言うために口を開く。
「ありが…」

 その時だった。

「敵じゃ!」
 ブライの声に、アリーナとクリフトは瞬間、臨戦態勢に入る。
 敵は空から。
 プテラノドンの大群だ。
 ブライが発動させたヒャダルコが群れを包む。
 しかし奇襲に対しての咄嗟の詠唱は、全てに氷柱を見舞うまでにはいかない。残った別の群れが、すぐさま押し寄せて来た。
 弾けるようにアリーナは飛び出し、群れの中に身を翻す。
 クリフトは再び剣を抜き、まだ迫り来る群れと対峙した。

 ――おかしい…。
 呪文を詠唱しながら、ブライは眉を顰める。
 夕方、それも夕暮れの刹那は、逢魔が時とも呼ばれることからも魔物が多いのは常のことだが、それにしてもこの大群は。
「ええい、どけと言うに!」
 バサバサと舞い降りてくるプテラノドンを、呪文と共に杖で振り払う。
「ブライ様!」
 背後で何者かが魔物を斬る音がし、クリフトの声がした。
 続けて唱えられる癒しの呪文。
 ブライの負ったかすり傷がたちどころに塞がる。
「何かが、おかしいです」
 ブライの隣に並んだクリフトは、肩で息をしていた。
 先程、姫君に指摘された腕の傷もまだ癒えていない。
 ブライはそれに気づかぬわけではなかったが、しかし今はこの異常事態を収めることが優先された。
「お主もおかしいと思うか。これは…普通の群れではない」
「ええ。何者かが、意図して率いているかのような…」
 言いながらクリフトは帽子の鍔を持ち上げ、暗くなり始めた空を見上げる。
「あれは…」
 群れの一番高いところに小さく見える、氷の色に身を染めた不気味なプテラノドン。
「違う…アイスコンドル…!?」
 この地域では出る筈のない、プテラノドンの亜種がそこにいた。
 クリフトの視線を追ったブライが、目を見開く。
「いかん、あやつは…!」
 氷の属性を持つその亜種には、己の呪文はよく効かない。
 高い場所から見下ろすそれを撃ち落とすことは、ブライには不可能だった。

 地面の惨劇を嘲笑うかのように、アイスコンドルはゆっくりと上空を旋回する。
 そしてぴんと翼を大きく広げた瞬間、その瞳が狙いを定めて妖しく光った。
「しまった!」
 ブライが叫ぶ。
 アイスコンドルが獲物としたのは、姫君であった。
 アリーナはブライとクリフトから少し離れた前方で、五匹のプテラノドンを踏みつけ跳躍し、空中戦を繰り広げている。

 間に合わない、ブライはそう思った。
 しかしその予感は、直ぐに隣の青年への疑問へと変わった。
「クリフト…!?」
 間に合わなくても駆け出すであろうと思っていたその神官が、まだ自分の傍にいる。
 腕の傷は未だに治していないようだが、足にも深手を負っていたのだろうか。
「クリフト、おぬし…」
 様子を尋ねようとしたブライの言葉はしかし、クリフトの表情に遮られ続くことなく呑み込まれる。

 クリフトの瞳に、大切な姫君は映っていなかった。
 いや、見てはいるのだろうが。
 彼の瞳には、今現実に見ているこの現状でなく、深い闇が映っていた。
 何故か、ブライはそう感じた。
 いつもとは明らかに違うこの若者の様子は、老魔術師に、己の言葉に詰まらせ沈黙させるのには充分だった。

 クリフトは虚空を見上げ、眼前に二本の指を立てる。
 彼の呪文詠唱のスタイルだ。
 その唇が素早く小さく動き、ブライの耳に聞き慣れない詠唱が届いた。
 スカラやマヌーサのそれとは全く違う。
 この言葉は――…
「古代の言語…!?」
 驚きを隠せないブライの傍らで、クリフトは聖なるものとは全く違う印を切る。その眼前に暗い紫色の魔方陣が浮いた。

虚なる時の狭間に棲まいし闇の精霊よ…
 クリフトが口から紡ぎだす言葉は、魔法に長けたブライとて理解は出来ない。
 ただ、その術が何かこの神官に似つかわしくない“禍々しいモノ”から成る術であることはわかった。
 魔方陣から闇が溢れ出し、クリフトを包む。
 それは今にも、術者を喰らうかの様だった。
 よせ、と言わんとするブライだが、しかし声は出ない。
 なぜ彼を止めようとする言葉が出そうになったのかも分からなかったからだ。
今こそ我が元に力を示せ!
 詠唱が終わる。
 クリフトをすっかり包もうと膨れ上がった闇は、彼が次の一言を発すると、途端にその牙の方向を変えた。

「ザキ」

 闇を映すクリフトの視線の先には、身の回りのプテラノドンを全て倒し終わったアリーナの背後上空から、急降下してきたアイスコンドル。
 禍々しい闇が渦を巻き、それはうねりながら魔物に喰らいつく。

 断末魔の叫びは無かった。
 轟く闇が霧散し、クリフトの足元から魔方陣が消えると、そこには全ての生命活動を停止させたアイスコンドルの亡骸が横たわっていた。



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