++ Happy Everyday.

生きよ、混沌を越えて.1

 夕暮れのサランの風に、どこからか夕げの香りが漂ってくる。
 穏やかな風景、町の喧騒。
「……サランの町は変わらないのにな…」
 瞑想するように閉じていた瞳を開き、ぽつりとアリーナが呟いた。

 サランはサントハイムの城下町。
 幼少の頃、城を抜け出してはこの町に遊びに来た。
 お忍びというわけでもなく、幼馴染の手を引っ張って、町中を駆け回ったり城内には無い道具屋を覗いたり――頭の中に様々な思い出が浮かぶ。

 故郷とも言える町の風景だが、しかしそんな穏やかな景色も今のアリーナを癒してはくれなかった。
(――お父様…みんな…)
 胸に右手を当て拳をつくり、きゅっとそこに力を込める。
 ざわりと風が吹き、彼女の長い髪がぱさぱさと流れた。

 アリーナは独りでここに立っていた。
 宿で出された早めの夕食を、味も分からずにただ身体へと押し込み、半分ほど食べ終えたところで席を外した。
 誰にも何も言わずに出てきたが、そんな自分を誰も咎めはしないし、何処へ行くのかと尋ねる者もいなかった。

 細い風に頬を撫でられ、顔を上げる。
 風は、丘の上にある城の方向から吹いていた。
 魔物の根城となった、己の最も大切な“帰るべき場所”から――。


 かさり、と落ち葉を踏む音がして、振り返らずともアリーナには自分の後ろに誰が来たのか分かっていた。
「………」
 何かを言おうと僅かに震えたアリーナの唇は、言葉を紡ぐことが出来ずに閉じられた。
 言うべきことが見当たらなかった。
「………宵の風は、冷えますよ」
 マントを宿に置いてきたアリーナの肩に、その人物がそっとショールを掛ける。
 ありがとう、と言う代わりにそのショールの裾を握って身体を包み、アリーナは頷いた。
「ねえ、クリフト」
 顔を見ないままで、彼に話しかける。
「はい」
「………」
「………」
 しかしアリーナは話を続けず、また黙って風の吹く方向を見上げてしまった。
 クリフトも同じ方向を臨み、アリーナの悲痛な想いに己の胸を痛める。
 近いのに遠く感じるサントハイム城のシルエットが、暗くなってゆく空に浮かんでいた。

 あの城を出て、もうどれくらい経ったのだろうか。
 全ての人間を消されてしまったことによる無力感は、言い表しようのない憤りとなって己の中に燻り続けていた。
 そして今、城は魔物に蹂躙され、その魔物達を束ねつつ玉座を我が物としている敵がいる。

 バルザック――。

 キングレオにてその名を聞いた瞬間、アリーナは胸に燻り続けていた火種が一気に膨らみ、己の身を焦がしそうになる程に心が灼かれるのを感じた。
 聞けばマーニャとミネアの仇だと言う。
 姉妹はあれから言葉少なに押し黙ってしまったが、きっと彼女たちも、自分とはまた違う苦しみに胸を苛まれているのだろうと思った。

 それは決して、量れるものではない。

「…マーニャと、ミネア…は、…大丈夫かしら」
 己の胸中をどうしても言葉に出来ず、アリーナは考えていることと少しだけ異なる質問を口にした。
 クリフトはすぐには応えなかった。
 夕陽がすっかり沈み、冷たさを増してゆく風が吹き、アリーナがショールを直したところで、やっと彼の唇が動いた。
「…………辛いです、ね…」
 アリーナの問いには明確に答えず、クリフトも少しだけ胸の内とは違う言葉を選ぶ。
 しかしアリーナはゆっくりと、従者のその言葉に頷いた。
 そうしながら、心の中で、ふと我に返る。
(――クリフトも、辛いんだ…)
 自分の居場所が、何よりも大切な故郷が蔑ろにされているということは、彼にとっても同義であった。
 そして、クリフトだけではない。
 おそらく、いま宿にて黙しているブライも――。
「………」
 アリーナは俯き、唇を噛む。
 慰めて欲しいわけではなくて、でもどうしても居たたまれなくて、一人になりたいようで独りにされるのは怖かった。
 この瞬間に幼馴染がここに来てくれて、本当によかったと思う。

「ねえ、クリフト……」
 振り返り、唇の端に微笑を乗せて、アリーナは自然にクリフトの手に触れた。
 いつもの黒い手袋を外した幼馴染の指先は、思いのほか冷たかった。
 やっぱり自分と同じだ、とアリーナは思う。
「明日…」
「はい」
「…頑張ろう、ね」
「……はい」
 今現在の、精いっぱいの笑みを浮かべる姫君に、神官は同じ微笑を浮かべて頷いてみせた。

*****

「クリフト」

 アリーナを部屋に送り自分も休もうと廊下を歩いていたクリフトは、不意に呼びかけられて足を止めた。
「……ブライ様」
 声の持ち主のほうへ踵を返し、会釈をする。
「姫様はもうお休みになられたか」
「……はい――お眠りになることが出来ないかもしれませんが」
 答えながら、クリフトはわずかに眉を寄せた。

 アリーナは今日、いつものようにマーニャやミネア寝室を共にすることなく、一人部屋を取っていた。
 それは、仇討ちを目前とした姉妹を二人きりにさせてやろうというパーティ全員の計らいであったが、それでもただ独りで宿のベッドに横たわり、閉じることの出来ない瞳を天井にむけている姫君のことを思うと胸が痛む。
「ふむ…」
 眠りの呪文などが効けばいいのだが、このような状況下においてそれが功を奏すわけもない。
 ブライは難しく眉を寄せて、ひとつ溜息をついた。
「…ブライ様も、少しはお休みになりませんと」
 いつも自分たちを気遣い、見守ってきてくれた恩師のような存在の老魔術師に、クリフトは労りの気持ちを含めながらそう促す。
「それは…お主も同じであろう」
 白髪の眉を少し持ち上げ、ブライは若き神官を見上げた。
 薄暗い廊下で、クリフトの紺青の瞳は翳に染まっていた。
「私は………」
 クリフトは俯き、頭を振る。
 自分の胸に渦巻く、この想いを言葉にすることは出来なかった。
 思い詰めている、というものとはまた違う。
 恐れでもない。
 不安の様でいてそうでない、静かな怒りの様な――それでいてどこか希望を求めて彷徨っているかの様な――。
 表層ではこんなにも平常心でいるのにもかかわらず、己の奥底では炎が燃え盛っているのだ。

「…我ら魔法の使い手というのはな、クリフト」
 視線を足元に落としたままの神官を見つめ、やがてブライはゆっくりと諭すように話しはじめた。
「戦闘においていつでも、冷静でいなければならん」
「………」
「それはいついかなる状況においても、落ち着こうと努力をすることじゃ」
 胸中を見透かされた心持ちになり、クリフトは一瞬ブライに向けた瞳を再び床へと逸らした。
 ブライはそんな若者に、ふと温和な笑みを向ける。
「無論、難しいことじゃ。同じ状況下で儂にそれが出来るかと言えばまだ完璧ではない…しかし」
 コツ、と床板に杖をつき、ブライはローブの下で小さく足を踏み出した。
「特にお主には――今後も、それが求められよう」
 すれ違いざまにそう告げ、経験高き魔術師は自分の部屋へと歩いてゆく。
 クリフトは顔だけ振り返り、ブライの背中を見送った。
「………私はまだ…修業が足りません」
 独り言ちて顔を上げたクリフトの口元に、ほんの少し自嘲的な笑みが浮かぶ。
 答えの代わりに、ブライが自分の部屋の扉を閉める音が、廊下の奥から静かに響いて消えた。

*****

 その宿の角部屋では、ジプシーの姉妹が静かに仇討ちの前夜を過ごしていた。
 二人きりの夜は久しぶりである。
 しかし一般に聞く町娘の仲良し姉妹の様に、話に花を咲かせることなく、マーニャとミネアは時が過ぎるのを待っていた。
 言葉は無くとも、互いの気持ちは分かり過ぎるくらいに伝わっていた。
 分かって欲しくないところまで伝わるものだから、姉妹というのは時に難儀だと二人は思う。

「………姉さん」
 長い沈黙を破ったのはミネアだった。
 ベッドの上で脚を組んでいたマーニャは、こちらに背中を向けたままで窓から外の夜空を見つめている妹に視線を投げる。
「私たちの辿ってきた道…間違ってなんか、なかったわよね」
 質問形ではあるが、自分自身に確かめる様に、ミネアは呟いた。
 慎重なこの占い師は、いついかなる時でも着実に先のことを考えて行動を重ねてきた。
 予定外の事態に驚くことがあったとすれば、それは殆どが姉のマーニャが起こすイレギュラーによるものだ。
 そんな彼女が妹であるからこそ、自分はいつも自由に思い切った行動が出来るのだとマーニャは勝手に解釈をしていた。

「間違いなんて無いわ」
 少なくともあんたには、と小さく付け足し、マーニャはベッドを軋ませて腰を上げた。
「私たちが選べる道なんてひとつしかなかった。それを歩いて来たんだから間違ってちゃ困るのよ」
 努めて明るくで言う姉の声に頷き、視線は空へ向けたままでミネアはきゅっと拳を握る。
 マーニャの言うとおりだった。
 仇討ちを目指す自分たちにとって、選べる道が少ない、とはよく言われた言葉だが、実際に道など一つだけだった。
 無理に選択肢を作るとすれば、”行くか退くか”だ。
 そして後者を選べるほど、少なくともミネアは強く在れなかった。
 恨む対象でも何でもいい、道すじが自分の前に無いと、生きてゆくことさえ出来なくなるように思えたのだ。

「……あんたは、間違ってない」
 いつの間にか傍に来ていたマーニャの声が、今度はすぐ後ろでミネアの耳に届いた。
「……ええ。…そうよね…」
 僅かに頷き、ミネアはゆっくりと振り返る。
 マーニャの紅蓮の瞳が、強い眼差しで自分を見つめていた。

 父を失った後、バルザックを追って旅に出ようと、すぐさま提案したのはミネアだった。
 おそらくマーニャは提案に出すまでもなくそうするつもりであったのだろう、簡単に荷物を纏めただけで、二人は着の身着のままでコーミズを飛び出した。
 故郷に戻れば、あの部屋は時を止めたまま、壊れた椅子も引きちぎられた錬金術の本も、すべてがそのままに哀しみの底に沈んでいる。
 そこに居続けることは出来なかった。片付けをして旅に出ることも出来なかった。

「姉さん、私ね…明日のことは占っていないの」
 不意をついて、ミネアの口からそんな言葉が告げられた。
 怖いような気がして、と胸の内だけで呟き、ミネアはそっと自分の体を抱く。
「このことに占いは要らないわ」
 マーニャは言って、躊躇わずに妹を抱きしめた。
 ミネアはそっと目を閉じ、子供が心を落ち着かせようとするように大きく息をつく。
 いつでも強く優しい、姉の存在。
 勇者であるカイルに導いてもらってここまで辿りついたけれど、自分にとっての道しるべはこの姉でもあるのだと、決して口には出さないがミネアは思っていた。
「私たちはもう、二人きりで弱く泣いてたあの頃とは違うでしょ?」
 そう言って、マーニャはふっと笑ってみせた。
 自分自身を勇気づけ、鼓舞しようとするときの強い笑顔だ。
 この旅で何度も、この笑顔に元気を貰った。

 哀しみのもとに旅立ったコーミズ。
 情報と旅の資金を集めたモンバーバラ。
 己の無力さを思い知らされたキングレオ。
 失意の元に逃げ出したハバリア――。
 姉妹の脳裏に、二人きりで旅をした思い出がフラッシュバックしていく。
 そしてエンドールにて、まだ小さく儚くはあるが、確かな導きの光と出会えたこと。

「…そうね」
 やがてしっかりと頷き、ミネアは夜にしてこの日初めての笑顔をマーニャに向けた。
「占いなんて要らないわ」

 父は決して戻っては来ない。
 しかし結末を知っていようと、自分たちには足掻くことが必要だと、この姉妹は知っていた。



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