++ Happy Everyday.

花もつぼみ

 北の洞窟に奇妙な魔物が棲みついたらしいと、そんな情報が入ったのは突然だった。
 最後の鍵の使い道を求め、ふとレイクナバに立ち寄った日の出来事だ。

 ここは交通や行商の要という地の利も無く、言ってみれば田舎な雰囲気のある長閑な町。
 しかし今や大国エンドールに店を構え、ボンモールやブランカとの流通を盛んにした立役者、大商人トルネコの旅立ちの土地ということもあり、旅の商人が己の商売繁盛祈願も兼ねて訪れる密かな聖地となりつつあった。
「いやはや、久々にお会いできたというのに、少しばかり穏やかでない話を聞いてしまいましたねぇ」
 過去にそこで勤務していたという武器屋のカウンターで、トルネコは店の親方の前で帽子を取って頭を掻いた。
 小さな町の武器屋にしては広いその店内には、銅の剣や棍棒といった一般的な武器から、覇者の剣と呼ばれる魔力を込められたものまで一揃いの商品が並んでいる。
 旅の商人であれば、ここに来ればまずは立ち寄るポイントだ。
 それだけに入って来る情報の量もここは町一番であり、武器屋の親方はすっかり情報通になっていた。
「先週あたりかな。ふらっとやって来た旅商人がそんなことを言ってたんだ」
 いつもなら店番を若い者に任せて自分は地下の工房に籠っている親方だが、やって来たのが顔馴染みのトルネコとあっては出てこない筈が無い。
 少しの間昔話などに花を咲かせ、トルネコの妻ネネや息子ポポロがエンドールで健在だということを確かめた後、親方は話題を選ぶように北の洞窟の話を持ち出した。
「もともとあそこには、トラップがあるだけで強いモンスターが棲んでた訳でもないだろう?だから奇妙な魔物ったって、今のところこの町に被害があるわけじゃあないんだが…」
 旅商人から聞いた情報というものを、自分なりに解釈しながら親方は言う。
 珍しい魔物、という言葉に、トルネコの背後で店の武器を嬉々として眺めていたアリーナを始め、その場にいる他の仲間も耳を澄ませた。

 親方の話というのはこうだった。
 レイクナバ北の洞窟に“鉄の金庫”を求めて、とある旅商人が訪れた(残念ながら金庫自体は過去にトルネコが頂いてしまっていたのだが、彼は情報収集をしなかったらしい)。
 さほど強くもない魔物たちを追い払いながら、忍び足で最深部に辿り着くと、この辺りではあまり見ない大きな魔物がそこにいた。
 強い武器も所持していることだし退治しようかとも考えたのだが、独りでは何とも心細い。
 商人は仕方なく、物陰からその魔物の様子を窺うにとどめ、引き返して来た。
 ――というのだ。

「そんなの。簡単じゃない、ぶっ飛ばしちゃえばいいのよ」
 頷いているトルネコの後ろからにゅっと顔を出したアリーナが、親方に言った。
「私が行って、ちゃちゃっとやっつけて来てあげるわ」
 短い袖を肩まで捲って力こぶを見せつけ、アリーナは既に意欲満々といった様子だ。
 その背後で老魔術師ブライがやれやれと肩を落とすのを見て、振り返ったトルネコは「余計なことを姫君の耳に入れてしまった」と申し訳なさそうな表情をその顔に浮かべた。
「お嬢ちゃんが行くのかい…」
 姫君の恐ろしいほどの強さを知らない親方が、大丈夫なのかと言いたげに顎に手を当てる。
「……アリーナさんなら平気だとは思いますけどね」
 トルネコはブライの様子をちらちらと確認しながら、小さく呟いた。
 何より、魔物の話を聞いてこの姫君が黙っていられる筈がない。

 しかし自分達は今、大きな旅の途中。
 その目的がまた別のところにある以上、姫君のお目付け役であるブライ以外にも、パーティを率いる勇者である青年に是非を問わねばならないだろう。
「いいんじゃないか、別に。その魔物って奴を倒すなら俺も行くよ」
 トルネコの視線がうろうろと迷って自分の方を見たことに気付き、それまで黙っていた翠髪の青年、カイルは頷いた。
「いいんですか?」
 町の為とはいえ、故郷への私情が挟まれる為に自分から言い出せずにいたトルネコの瞳がパッと輝いた。
 勿論自分も出向くつもりではあったが、カイルが付いて来てくれるというのであれば話は早い。
 ひとり突っ走りそうになる姫君のブレーキにもなるだろう。
「アリーナ単独で行かせるわけにもいかないしな」
 カイルはアリーナの横顔をちらりと見て、それからブライを安心させる為にもそう言った。
 まだ幾分気が進まなそうにだが、しかし町の為にということであるならとブライは頷く。
 モンスターが、洞窟や廃墟といった人の居ない場所を根城とするのは周知の事実。
 サントハイム城のように、いつかその洞窟も、魔物が魔物を呼び、今より遥かに強い邪悪なるものに目をつけられるという可能性もある。
 不穏な動きをする悪の芽は早々に摘んでおいたほうがいいだろう。
「仕方ありませんな…」
 言っても聞かないであろうアリーナに苦言を呈すことは既に諦め、ブライは己の白い髭を撫でた。

「その洞窟っていうのは、町の北にあるんでしょ?広いの?大きいの?他にどんな魔物が出るのかしら」
 トルネコの代わりにカウンターに身を乗り出し、アリーナはきらきらと目を輝かせながら親方に質問を始める。
 独りでもいいから早く行きたい、魔物と戦いたいといった顔つきだ。この質問も、まだ入ったことのない洞窟の話を聞いて己のテンションを上げたいからという理由に他ならない。
 姫君をよく知らぬ人間であっても、その様子からはすぐに戦闘好きだということが窺える。
 残念ながら、と親方は肩を竦めた。
「そんなにデカいもんじゃないよ。馬車も入れられないしな。あんまり大人数で行くとかえって不便だぞ」
「そう、構わないわよ、私は独りでも」
「姫様!」
 とうとうブライが苦々しい声を発した。
「少しは落ち着きなされ。カイル殿とトルネコ殿も一緒に行かれると言っておられるでしょうに」
「何よ、ブライも行きたいの?」
「……むぅ」
 姫君に切り返され、洞窟嫌いの老魔術師は小言を連ねていた口を噤む。
 ほらね、とアリーナは笑った。
「ブライはこの町で待ってなさいよ。ぱぱっと行ってちゃちゃっとぶっ飛ばして来ちゃうから」
「姫様。先程から思っていたのですが“ぶっ飛ばす”というお言葉遣いはいけませんぞ」
「じゃあ親方さん、ちょっとだけ待っててね。この町を悩ます魔物なんて、この私の手にかかればイチコロよ!」
「姫様っ!」
 ブライの説教などどこ吹く風で、アリーナはひらりと藍色のマントを翻して店の外へと駆け出す。
 残されたカイルとトルネコはやれやれと顔を見合わせ、溜息と共に苦笑した。


 武器屋を出てすぐの小道で、ちょうど教会から戻って来たクリフトがアリーナとすれ違った。
「姫様?どちらへ――」
「北の洞窟!クリフトは行く?待っててもいいわよ、決めなさい今すぐに」
「は?」
 アリーナの周りを振り回す行動力には、メダパニ並みの威力がある。
 矢継ぎ早に告げられ決断を迫られ、クリフトは一瞬だけ思考を混乱させた。
 アリーナを追いかけて店から出て来たカイルが、クリフトの前で立ち止まる。
「この近くの洞窟に、この辺りじゃあんまり見ない魔物が棲みついたんだってさ」
 簡単に事の成り行きを説明すると、すぐにクリフトは理解し、「ああ、それで」と口の中で呟いた。
 武器屋の前ではまだ苦虫を噛み潰した様な表情のブライを、トルネコが宥めている。
「馬車も引いて行けない場所らしいから、少人数で行こうと思ってるんだ。アリーナと俺と、トルネコさんと。あとはまあ、回復役――お前かミネアなんだけど」
「…そうですか…」
 状況を把握したクリフトは、頷くと教会の方へ視線を送った。
「ミネアは?」
 クリフトと同じ方を眺めながら、カイルが尋ねる。
 クリフトは頭を振った。
「まだ教会の中です。この町に住んでらっしゃるご年配のかたに…その、つかまってしまって」
「ああ、トムじいさんですね」
 二人の傍までやって来たトルネコが、腰の鞘に覇者の剣を差し込みながらそう言った。
「自分の話を聞いてもらうのが好きなんですよ。もともとお祈りが熱心で、よく教会まで押して行ったものです」
 色々と世話になり、自分も世話をしたその老人の姿を思い浮かべ、トルネコは懐かしそうに微笑む。
 クリフトは少しだけ困ったような笑みでそれに応えた。
「ミネアさんが占い師だということを知って、ご自分や息子さんの未来まで尋ねてましたよ」
「トムじいさんらしいですねぇ…」
 うんうんと頷くトルネコの横では、ブライが「息子はいいが年寄りが己の未来を知ってどうなる」などと少々毒を吐いている。
 まだ溜飲が下がらないらしい。

「もう、どうするの?私、一人で行っちゃうからね~!」
 町の入口まで辿り着いてしまったアリーナが、腕を組んでこちらを呼んでいるのが見えた。
 ミネアを待っている時間は許されないだろう。
 ちなみに彼女の姉であるマーニャは「この町って酒場が無いの!?」と口を尖らせ、ここに着くなりライアンを引っ張って宿の食堂に行ってしまった。
 あわよくば酒が出るとでも思っているに違いない。
「仕方ないな。準備を確認してる暇も無いや、行こう」
 カイルは言いながら、アリーナが待つその方向へ早足で歩き始めた。
 トルネコもそれに続く。
 ブライは眉をきつく顰め、姫君の様子にまた溜息をついてから、無言でクリフトを見て顎を少し動かした。
 ついて行け、というのだろう。
 クリフトは頷き、頭に乗っている神官帽を被り直しながら二人に続いた。

*****

 親方から聞かされた話に違わずその洞窟の入口は狭く、馬車が入るには難がある様に見受けられた。
 中に棲む魔物はいたずらもぐらやはさみくわがた等が主で、時折スライムまでいる。
 おまけにトルネコがその洞窟の道順などを知っているものだから、アリーナは少し進むなり、全くもって物足りない様子で眉を顰めた。
「もう、こんなのばっかりじゃ拍子抜けだわ」
 足元のはさみくわがたをポコリと蹴ると、それを見ていたきりかぶおばけがカサカサと逃げていく。
 追いかけて退治するにはここの魔物達は弱すぎて、アリーナは何となく弱い者いじめをしているような感覚にまで陥った。
「そう言うなって。最深部に棲みついた奴はそこそこ強いのかもしれないし」
 剣を抜きもせずにただアリーナの後ろを付いているカイルが、のんびりとそんなことを言う。
 そもそもこの洞窟の奥に妙な魔物がいると聞いて来ただけで、他のモンスターまでもが全て強くなっているという情報は全く無かった。
 勝手に期待していたアリーナには悪いが、カイルにとってはこの状況のほうがやりやすい。
 やたら強い魔物がうじゃうじゃと群れていたら、それはそれで考えなくてはならないことが増えて面倒だからだ。

「姫様、お怪我はありませんか」
 カイルと同じく剣を収めたままのクリフトが、小物のモンスターが全て居なくなったところでアリーナに近づいた。
「怪我なんてあるわけないじゃない」
 何を言ってるの、とばかりに従者を一瞥してアリーナは言う。
 クリフトはすっと目を細めた。
「…先程魔物の爪が掠っていた様に見えました」
「あんな弱っちいモンスターの攻撃なんか平気よ」
 アリーナは言いながらぐるぐると腕を回すが、その動きをそっと制したクリフトは姫君の二の腕についた傷を目ざとく見つけて彼女の手を取る。
 はさみくわがたの攻撃が僅かに当たったのだろう。
「掠り傷でも放っておいたらいけません」
 クリフトは言いながら、アリーナの腕に手を翳した。
 しかしホイミが発動する一歩手前、アリーナの手がクリフトのそれを軽く払いのけた。
「平気だったら、いちいち心配しないで。こんな傷で」
 舐めときゃ治るわよ、と得意の言い訳をしながら白い二の腕の外側を覗く。
「………姫様、そこは舐められませんよ」
「うるさいなぁ、もうっ!」
 届かないピンク色の舌を伸ばしかけたアリーナは、突っ込みを入れられて顔を赤くした。
「だいたいね、トルネコさんのほうが傷が多いわよ。先頭を歩いてるんだから」
 悔し紛れにクリフトを睨みながら、前方にいるトルネコを指さす。
 地下へ下りるためには確かここを…、と水を堰き止めてある石壁の仕掛けスイッチを探していたトルネコは、突然名前を出され、「へっ?」と妙な声を出しながら振り返った。
「私ですか。私は大丈夫ですよ、…ダメージにもなりません、これくらい」
 律儀にこちらにも回復呪文を唱えようとしていたクリフトに、首を横に振って笑顔を向ける。
「それより、アリーナさんはやる気を、クリフト君はMPは残しておいたほうがいいでしょう。ここのボスとなった魔物との戦いに備えなくては」
 いつものことだし、と姫君と神官のやり取りを黙視しているカイルに代わって二人を纏め、トルネコはやっと見つけた仕掛けボタンをカチリと押した。
 ごとん、と重い音が響いて石壁が下がり始める。
「…さあ、これで水がこちらに押し寄せて来ま……アレ?」
 ずぶずぶと床に沈んでゆく石壁の向こう側から、トルネコの話によると大量の水が流れて来る筈だった。
 その急な流れによって押し流され、スリル満点で下の階に下りられるんですよ、と聞いてアリーナはそれも楽しみにしていたのだ。
 しかし、石壁の向こうにあったのは地面が湿っているだけの空っぽの空間。
 地下に下りる階段もすぐそこにあった。
「……水なんて無いじゃない」
 口を尖らせ、アリーナが言う。
 ははは…、と乾いた笑いを響かせながら、トルネコは布の帽子で覆われた頭に手を当てた。
「考えてみれば、ここの仕掛けはずっと前に私が解いてしまったんでした…」
「もー!見てみたかったのに!」
 強い魔物とも未だ出会えず未知の仕掛けを味わうことも出来ず、アリーナの中には小さな憂さが溜まっていった。
 それを晴らす恰好の餌食といえば、戦闘中でもない今ならクリフトである。
 アリーナは黙って自分の傍に立っている従者を、八つ当たりの意味を込めてキッと睨んだ。
「いーい?クリフト。御覧の通り、ここは難解なダンジョンじゃないんだから。こんな場所でホイミホイミって過保護にしないで」
「……はい」
「ベホイミもダメよ。必要な時は私が言うから」
「承知しました」
 回復呪文を無暗に使うなと主に命じられ、内心は何を思っているのか定かではないが、クリフトは表面上素直に頷く。
 その様子を見て、姫君はとりあえず満足した様子で自分の腕を組み、「よろしい」と顎を上向かせた。
「じゃ、行きましょ。もうサクサク進んで、奥にいる強い魔物っていうのを爽快にぶん殴ってやりたいわ」
 実はここに棲みついた魔物の噂は「妙な・この周辺では珍しい」魔物ということであって「強い」かどうかは分からない。
 しかしアリーナの中ではとっくに「最深部に居るのだから強いもの」と決まってしまっているらしく、皮のグローブで包まれた手をパキポキと鳴らしている。
 魔物に対して期待を抱くわけではないが、少しくらいは手ごたえがあるといいのだが――と一抹の不安を感じ、男三人は姫君の後に続いて階段を下りた。



 人間の後をくっついてゴロゴロと大きな岩が追いかけて来る、という仕掛けも、あの頃を思い返せば下のフロアにはあった筈だ。
 しかしそれも解決済みの形で残っており、トルネコはすまなそうにアリーナの横顔を見た。
 もとより、岩がせっかく追いかけて来てもアリーナが砕いてしまうかもしれないが。
 見たいと言うものを見せてやれないことは自分としても歯痒い。トルネコは苦笑しつつ「すみませんね」とアリーナに声を掛ける。
「別にいいわ」
 アリーナはあっけらかんと応えて、自分の眼前にある分厚い石の壁を見上げた。
「この向こうに大きな魔物っていうのがいるのよね?」
「ええ。……そう思います…たぶん」

 トルネコが奥歯に物が挟まったような口ぶりなのには訳があった。
 本来この最深部の石壁は、内部の床にあるスイッチが押されているのなら“開いた”状態になっているべきなのである。
 情報をレイクナバの町にもたらした旅の商人が見た段階では、おそらく中にきちんと魔物がいて、その大きな魔物がスイッチを踏んでいたからこそ、遠くからも邪悪な姿を垣間見る事が出来たのだろう。
 しかし壁は今、“閉じて”いる。
 それはつまり、中のスイッチが押されていない状態であるということで――。
「うーん…アリーナ、ちょっと待っ…」
 トルネコの話から様々な状況を考えたカイルが、せめて何があってもいいように体勢を整えようと提案する前に、アリーナが後ろ足を踏ん張って腰を落とした。
「やあっ!」
 気合と共に掌底突きを繰り出す。
 せっかくの仕掛けがあった石壁は、いっきにヒビを広げて無残にガラガラと崩れていった。
 かなり前の話になるが、パデキアの洞窟でも「姫様は壁や扉を見れば叩き壊さなければ気が済まぬのか」とブライが嘆いていたのを不意に思い出し、カイルは「やっぱりこうなるんだよな」と呟いた。
 この洞窟の仕掛けを、レイクナバが細かく管理していないことを祈ろう。

「――!」

 ふと、瓦礫によって生まれた土煙の奥で大きな気配が動いた。

「やっぱり、居たか…!」
 咄嗟に戦闘態勢に入る面々。
 カイルは腰の剣を抜き、クリフトはスクルトの詠唱に入り、トルネコは覇者の剣を構えた。
 床のスイッチを踏まずに息を殺して待っていたのは、四対の脚を持つ獅子の姿をした獣――。
「アームライオン……!?否、違う…!」
 姿を現した大きな魔物に、カイルが眉を顰めた。
 この獣形のモンスターは、他の地方で見かける事もあるが――それらよりもふたまわりほど大きい。過去に闘った“キングレオ”くらいの大きさだろうか。
「来るぞ!」
 どんな敵かを観察し、作戦を考えようとしていたカイルの思考を、魔物の咆哮が遮った。
 太い腕が風を切り、辺りを薙ぐ様に振りぬかれる。
「――スクルト」
 詠唱を終えたクリフトが最後に一言術を唱え、魔力による防御の衣が仲間ひとりひとりを包んだ。
 アリーナが獅子の攻撃を躱し、その頭上を舞う。
 トルネコが一本の腕から振り下ろされた爪を覇者の剣で受け止め、カイルが反対側から剣技を繰り出す。

 確かに、この洞窟を根城にするにしては強い魔物だった。
 頭と肩の境目に向かってアリーナの蹴りが食い込み、トルネコが向かって右側の腕を押し返しているのにも関わらず、その獅子はカイルの剣を一本の腕だけで受け止めている。
 もう一度スクルトが必要だろうか――。
 小さく早口で呪文の詠唱をしながら、クリフトは背負っていた武器取って鞘から剣を抜いた。
 魔物の横に着地したアリーナが、そのまま流れる様な動作で身体を深く沈め、今度は胴体に鉄拳を見舞う。
 さすがに苦しいのか、獅子はおぞましい雄叫びを上げた。
 ビリビリと、洞窟の壁を震わせるほどの怒声だ。
 一瞬だけ、トルネコがたじろぐ。
 その隙を見逃さず、まだ自由な腕が残っている魔物はその爪でトルネコを振り払った。
「ぐぐっ…」
 瞬時に上体を逸らした為に致命傷には至らない。
 しかし傷を負い後ろによろめいたトルネコは、顔を苦痛に歪めながら尻餅をついた。
「トルネコさん!」
 呪文を発動までの時間が短めのスカラに切り替え、それを盾を持たぬアリーナに向けて放ったクリフトは、すぐにトルネコに駆け寄った。
 追い打ちをかけようとする魔物の動きを、カイルが己の剣を持って封じる。
 防御が上がったアリーナは怖いモノなど何も無いとでも言う様に、獅子の眼前に回って懐に飛び込んだ。

「――ベホイミ」
 トルネコが押さえていた脇腹の下にあった傷へ、クリフトが癒しの光をあてる。
 流れていた血が止まり傷が塞がっていくが、トルネコは青い顔をしたままだった。
 ありがとう、とこちらへ告げたいのだろうか、ぱくぱくと口を動かすが声が出ていない。
「……!」
 クリフトは直ちに彼の異変に気付き、別の癒しの呪文、解毒の術を素早く詠唱した。
「キアリー」
 ふわり、とホイミとはまた違う光が生まれ、トルネコの身体の毒が浄化される。
 魔物の爪に猛毒の要素があったのだ。
(――これは危険だ…!)
 それを悟り、クリフトはハッと戦況に目を向けた。
 そうして立ち上がった瞬間、獅子のしなる腕による攻撃をギリギリで躱したアリーナが、跳躍して魔物の眉間に渾身の拳を見舞うのが視界に映る。
 鼻頭を砕き、陥没させるが如くの力。
 轟く、獅子の叫びに近い呻き。
 アリーナが着地すると同時に、その巨体はくずおれて地に伏した。

 この辺りの土地に似つかわしくない強さを持つとはいえ、ここまで鍛錬を積んだ姫君の一撃に耐えられる筈が無い。
 動けなくなった魔物へ止めを刺す為、カイルが己の剣を振り上げる。
 その切っ先を紅い瞳で睨みつけながら、獅子は最後の力を振り絞って牙を向き、――咆えた。
「…っ!」
 単なる雄叫びでは無い。
 断末魔と共に、そこには魔力の波動が込められていた。
 それを身に受けながらも、勢いの緩むことのないカイルの剣が魔物の身体を貫く。
 獅子は力尽き、魔力によって保たれていた姿は次第に灰となっていった。


「これで終了、だな。…そっちは大丈夫か?」
 魔物の躯が全て崩れてしまう前に、そこから剣を引き抜いたカイルがクリフトとトルネコを振り返る。
 既に剣を収めたクリフトの手を借り、トルネコは治った傷を確認してゆっくりと地面から腰を上げた。
「いや、油断しました。すみませんでしたね」
「いいえ、とんでもないです…」
 改めて礼を言われ、クリフトは気にするまでもないとトルネコに微笑して首を振ろうとする――
 が、その瞳がふとアリーナの方を向いて訝しげに細められた。

「…姫様?」
 いつもなら、こういった戦闘終了後には「大したことなかったわね」などとにっこり笑いながら駆け寄って来る筈である。
 その姫君は、魔物に会心の一撃を繰り出して地面に降り立ったその場所を動かず、俯いた状態で微動だにしていなかった。
 ――様子がおかしい。
 誰もがそう思って見守る中、アリーナは顔を上げ、彼女に似合わない弱々しい笑みをその口元に浮かべる。
 姫君の藍色のマントの、首を守る為に分厚く巻かれた部分がぱっくりと割れ――肩口と首の間に紅い血の筋が浮いていた。
「姫様……!」
 慌ててクリフトが駆け寄る。
 膝が崩れるアリーナをすんでのところで抱きとめ、ゆっくりと地面に座らせると、日に焼けて健康的な筈のアリーナの顔色は真っ青だった。
「毒だ…!」
 カイルが呟く。
 先程、トルネコが食らったものと同じ爪を受けたのだろう。
 おそらく最後の一撃を出すためにの跳躍した際だ。
 アリーナにも意識はあり、傷は深くないものの、毒が少しずつ回っているのか呼吸が浅くなっていた。
「だ、だいじょうぶ、よ…」
 気丈に振る舞おうとするも、その声には張りが無い。
 クリフトはすぐさま、トルネコに施した時と同じ様に解毒の術を唱えようとした。
 しかし――。
「……?どうしたクリフト、早く――」
 詠唱をしても術を発動させないクリフトを、眉を顰めてカイルが覗き込む。
 クリフトは片腕でアリーナを支えたまま、顔を上げた。
「……カイルさん、リレミト出来ますか?」
 静かな、しかし差し迫った様な口調だ。
 カイルは思わず息を呑んだ。
「あ、ああ……」
 言われた通りに、地上へ戻る転移の術――リレミトを唱えようとする。
「………、………っ、あれ!?」
 しかし意識を集中させても、術は発動しなかった。
「おかしいな…何でだ…?MPはまだ充分に…」
 呟き、カイルは頭を捻る。
 その隣で、怪訝そうな顔をしていたトルネコが目を見開いた。
「……!もしや、さっきの魔物の断末魔……!」
 カイルが止めを刺す直前の、獅子の雄叫び。
 魔力の波は感じていた。
 その波動をまともに食らった覚えもある。
 あの咆哮には、マホトーンと同様の効果が込められていたのだ。
 近くにいたクリフトも勿論、カイルと同じ状態に陥ってしまっていることになる。

「トルネコさん、毒消し草を」
 すぐにカイルがそう促した。
 呪文が使えない状態がいつまで続くか分からないが、とにかく早く毒を消してやらなければならない。
 しかしいつもなら、言われるまでもなく朗らかに薬草だの毒消し草だのを取り出すトルネコだが、何故か今回に限っては目を泳がせ、頭を垂れた。
「実は…置いて来てしまったんです、道具袋を」
「え」
「急いで出て来てしまいましたから…武器屋のカウンターに、置きっぱなしです」
 途中で気づいてはいたのだが、この洞窟ではそれほど必要なアイテムも無いだろうと軽く考えていた。
 全く油断をしたものだ、と気配り上手である筈の大商人は激しく自分を責める。
「へ、平気よ。私は行けるわ……」
 謝るトルネコに、アリーナは笑いかけながら立ち上がろうとした。
 しかし当たり前ではあるが上手くいかず、クリフトの腕を掴む手にも強い力が入らない。
「あんまり喋るなって…毒の回りが早くなるぞ」
 カイルは言って、それにしてもどうしたものかと眉を顰めた。
 このままでは町に戻るには徒歩で行くしかない。
 途中で呪文を使える状態に戻ればいいが、アリーナの身体がそこまでもつかどうかは判断出来なかった。

 ――その時。
 思い詰めた様な表情で黙っていたクリフトが、意を決して口を開いた。
「………カイル、トルネコさん、ちょっと後ろを向いていて頂けますか」
「え?」
「姫様、御許しを」
 言うなりクリフトは裂かれたアリーナのマントの首元を広げる。
 そうして露わになった傷口を確認し、ほんの少しだけ己を責めるかの様な眼差しを浮かべた直後、そこを覆う様に深く口付けた。
「やっ…!何、放し……っ」
 突然の出来事に思考が追いつかず、咄嗟に暴れようとするアリーナ。
 その手首を強く掴み、動かぬように押さえつける。
「う、うぅ……、…っ」
 痛みと痺れが混じり合って苦しげな声が漏れ、アリーナは尚も無意識にクリフトの手を払おうとする。
 しかし――
「………!」
 いつもならこの幼馴染の力など簡単に振りほどける筈が、毒で力が入らないということも手伝ってか、掴まれた手首はびくとも動かなかった。
 強い、力。
 自分の手首を丸ごと掴む、大きな手。

 後ろを向いて欲しいと告げられたことも忘れ、カイルとトルネコは呆然とその様子を目の当たりにしていた。
 クリフトは回復や解毒の魔法の他に、それを封じられた時の応急処置も神学校で学んできたらしい。
 こうすることで、傷口から出来る限りの毒を吸い出しているのだ。
 傷をつけられてからまだそこまで時間も経っていない為、それは現状において考えられる最善策でもあった。

「………っ」
 飲み込まない様に注意しながら、目を閉じて姫君の傷口を強く吸う。
 やがて特殊な苦味のある錆びた血の味に、僅かな変化を感じる。
 クリフトは瞳を開き、ゆっくりとアリーナの首元から唇を離して、口の中に含んでいる毒の混ざった血を地面に吐き捨てた。
「…………大丈夫ですか?」
 緩やかに手の力を抜くと、掴まれていた姫君の手首はぱたりと膝の上に下ろされた。
「……。姫様?」
 完全に毒を抜くにはこれでは足りない。
 自分の口の端についた血を、襟元を覆う橙色の布で拭いながら、クリフトはアリーナを覗き込む。
 ぼんやりとしていたアリーナの瞳がハッと揺れた。
「へ、平気。もう平気よ。……ありが、と…」
 言葉はいつもの様に明瞭ではないが、声には張りが戻っていた。
 傷は少し痛むが、身体の痺れがこれ以上酷くなる様子は無い。

「とりあえず…、地上に戻ろう。歩けそうか?アリーナ」
 まだ呪文は使えないらしく、カイルがアリーナにそう尋ねた。
 うん、とアリーナは頷く。
 先に腰を上げたクリフトが差し出した、黒い手袋を嵌めた手に、そっと自分の手を添え腰に力を入れる。
 難なく立つことが出来た。
「…大丈夫よ」
 言ってから、アリーナは自分の手が未だクリフトの手に乗ったままであることに気付き、恥ずかしげにそれをパッと引いた。
 顔を上げると、自分よりずっと背の高いクリフトの瞳が、帽子の鍔の影からこちらを見つめている。
 何故か途端に落ち着かなくなり、アリーナはパタパタと手で顔を扇ぎ出す。

「顔色も戻って来ましたね」
 ひとまず安心だ、とトルネコが胸を撫でおろしながらそう言った。
 応えない姫君に代わり、そのようですね、とクリフトが頷く。
 俯くアリーナの頬に、朱が差していた。

*****

 レイクナバに戻り、真っ先にトルネコは仲間を引き連れて武器屋の親方へ報告に行く。
 親方は事の解決を喜び、自分の武器庫に置いてある力の種や、家宝だと言っていた氷の刃を持って行く様にと勧めてくれた。

 アリーナはというと、目的である魔物を見事に倒したというのに、町を飛び出して行った時の方がまだ元気だったと親方に突っ込まれる程に大人しかった。
 破れたマントをブライに見られて説明を求められる前に、早いところ宿屋にでも引っ込みたいところであるが、なかなかそうもいかずに曖昧に微笑む。
 疲れているんだろう、宿屋の主人に話は通してあるから今日はゆっくり休んでいくといい、と親方は豪快に笑い、改めてカイル達に礼を告げた。



「姫様、まだ具合が悪いのでは…?」
 親方から宝物を受け取っているカイルとトルネコを中に残し、先に武器屋から出たところで、クリフトがそっとアリーナにそう尋ねる。
 洞窟からの帰り道の道中で呪文が使えるようになった為、すぐにキアリーとベホイミをかけたが、まだ足りなかったのだろうか。
 少し腰をかがめて顔を傾け覗き込むと、アリーナはビクッと身を引いた。
「姫様?」
「なななな、なに?」
「具合は…」
「へ、へへ平気よ。大丈夫。あなたの術だもの、もうすっかり治ってるわ」
「……それならいいのですが」
 言いながらも、クリフトはまだどこか訝っている。
 アリーナの様子は、元気はあるようだがどこかまだおかしく目に映った。
 不自然にクリフトとも距離を置いている。
 自分の様子をじっと観察されてまた頬が熱くなり、アリーナは顔を俯かせた。
「あ…姫様」
 姫君の頭に乗った帽子に、洞窟探検の所為で少し砂埃がついているのに気付き、クリフトはふと手を伸ばした。
「え?」
 顔を上げたアリーナの視界に、クリフトの黒手袋をした手がこちらに向かって来るのが見える。
 大きな、手。
 先程まで自分の手首を掴んで、もがいても放さなかった――…
「にえぇえええっ!」
 途端にザザザザッ、と足元の砂を巻き上げ、アリーナは妙としか言い様の無い声を上げつつ後ずさった。
「な、何ですか!?」
 流石にクリフトも驚き、行き場を失った手を引っ込める。
「にゃ、なんでも無いにゃんでもないっ!」
 変に噛み噛みの言葉でアリーナは首を振り、帽子をぎゅっと頭に押し付ける。
 どうしてだか分からないが、クリフトの手を見た瞬間に心臓がバクバクと波打った。
 姫様、と何気なく自分を呼ぶクリフトの低い声までもが、身体に纏わりつくようだ。
「わ、私、宿に戻るねっ!…ちょ、ちょっとだけ疲れちゃったみたいだから…」
 顔を向けられずに下を向いたままでごにょごにょとそう伝え、アリーナは一目散に宿屋へと駆け出す。
「………」
 あっけに取られたままのクリフトの元に、ふわりと姫君の髪の微かな香りが残された。



「……どうした?」
 武器屋の親方から御礼と宝を貰い、扉を開けて出て来たカイルが、ふとそこに突っ立っているクリフトの背中を見つける。
 声を掛けると、クリフトはその時初めて我に返ったという様に振り返った。
「……いえ、何も…」
 アリーナが走り去って行った方向を名残惜しそうに見つめ、口の中でそう呟く。
「ふぅん?」
 翠色の髪をさらりとかき上げ、カイルは頭を傾けた。
 何もない、というわけはないだろう。
 武器屋から出る際、カイルは扉の向こう側で、アリーナの妙な叫び声を確かに聞いていた。
 しかしそれを深く突っ込むと後が怖そうだ。
 第六感で察知し口を噤んで、貰ったばかりの氷の刃を布に包み、腰のベルトに挟む。
「腹減ったなぁ」
 お決まりの言葉を出すと、ふうっと短く吐かれるクリフトの溜息が聞こえた。
「貴方はいっつもそれですね……」
 言いながら、クリフトの口元には苦笑ともとれる微笑が浮かんでいる。
 今の自分の心情を訊かずにいてくれることに、心の奥底で感謝していた。
 変わらないカイルの様子は、どこかホッとする。

「神官って、腹減らないの?」
 のんびりと歩き始めながら、カイルは頭の後ろで腕を組んだ。
 質問の内容はかなりバカらしく、しかし訊いている当の本人は半分ほど真面目なようで、クリフトはやれやれと帽子の乗った頭を振る。
「……減りますよ、口に出さないだけで」
 自分がこの青年のように四六時中食べ物のことばかりを口にしていたら、それこそどんな神官だ、と思うが――。
 何事をも正直に言葉に出して生きることに、自分は少し臆病だ。
 歩きながら思い悩むクリフトを察したのか、カイルがくるりと振り返った。
「たまには出してみたら。お前はいっつも自分の気持ちを伝えなすぎ」
 ぎくりとするようなことを言われ、クリフトは思わず立ち止まった。
「…そんなことも、ないですよ」
 思い当たる節があるのと、そうでもないという考えが半々で、クリフトは曖昧に首を傾げる。
「そうか?…まぁ別にいいんだけどさ」
 取り立てて問答するほどのことでもない為、カイルはすぐに再び歩き始めた。
 夕飯の前に何処かで何か食っていこう、と背中を向けながらクリフトを誘う。

「………まだ暫くは我慢です」
 間食のことではなく、クリフトの脳裏に浮かんでいるのは先程の混乱した様子のアリーナの顔。
 僅かな微笑を浮かせて答える唇は、裏腹にそのようなことを呟いた。

*****

 宿のカウンターでわたわたとチェックインを済ませ、部屋に飛び込むと、アリーナは閉めた扉にもたれかかりながらずるずるとその場に腰を下ろした。
 心臓がまだどくどく鳴っている。
 ここまで全速力だったから、というわけではない。
 グローブを外して両手で顔を挟むと、頬が熱を持っていることが分かった。

 ――アリーナは狼狽えていた。
 目を閉じると、洞窟での出来事やクリフトの手、自分の前に立った時の彼の胸元、腕の感触などが断片的に次々と浮かぶ。
 どれもこれもが、自分とはまるで違う。
「当たり前のことなのに……」
 アリーナは呟き、瞳を開けて自分の手を見つめた。
 戦闘により鍛えられ、拳の部分は皮膚が頑丈に厚くなっている。
 ここから繰り出す力だって、ライアンと比べれば均衡しているかもしれないが――仲間内の誰にも負けない自信もある。
 しかしクリフトのものよりは細い指。
 大きさだけを見れば、自分のほうがかなり小さい。
「そんなの分かってるのに……?」
 アリーナは手を握り、また広げてそれを再び自分の頬に当てた。

 勿論、昔から知っていたことなのだ。

 クリフトが“男”であることなど。

 しかし毒を受けて彼に手首を掴まれ、それを振りほどけなかった瞬間、アリーナの中で何かが弾けた。
 ――それが明確に何なのかが分からないから、狼狽していた。

 立ち上がり、部屋の壁にかかっている鏡を覗き込む。
 帽子の縁が砂埃で汚れているのに気付き、アリーナは指先でそれを擦り落とした。
 続いて、ぱちぱちと自分の手で叩くように顔を挟み、鏡の中を睨みつける。
 にっと口元を広げると、自分と全く同じ顔が作り笑いを浮かべた。

「……うん。へんなの」
 ひとまず動悸がおさまり、アリーナは首を傾げた。
 こうして鏡を見ている自分の行動も、どこかおかしく思う。
 やっぱり、外を駆け回って魔物を薙ぎ倒しているほうが自分には性に合っている。

 屈めていた腰を正し、ささっと身なりを整える。
 そこでふと、マントの首元がだらりと裂けたままであることを思い出した。
 魔物から与えられた毒と、それを吸い出してもらった時の感触までもが鮮明に甦り、アリーナはまた自分の胸がどきどきと落ち着かなくなるのを感じたが――

「…へんなのっ」
 その鼓動は、聞こえないフリをする。

 傷はすっかり治っているものの、クリフトが吸い出したその場所を誰にも見られない所に隠してしまいたいと思った。
 とりあえずは口うるさい爺やに見つかる前に、これを何とかしなくてはならない。

 頭のスイッチを切り替え、アリーナは部屋を出ようと早速ドアノブに手をかける。
 ――ミネアを探して、マントの繕い方を教えてもらおう。

 姫君の身体の奥底で、彼女がまだ知らぬ乙女が密やかに伸びをし、――再びその目蓋を落とした。



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